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プロフィール

○1972年 阿波踊りで有名な徳島県徳島市生まれ (38歳)

  • ・サラリーマンで共働きの両親のもと、姉(1歳上)、妹二人(6歳、8歳下)の4人兄弟。女系家族にお構いなく、近所のガキ大将として野山を駆け回って育ちました。
  • ※2010年の千葉市の入居以前に、習志野市津田沼に住んでいました。
  • ※なお、平安時代の古語拾遺という書物によれば、その昔、阿波の国(徳島)の民が黒潮に乗って房総の地にたどり着き、緑生い茂る千葉の地をたくましく開拓し、そこにもう一つの「あわの国」である安房国(※南房総の地名)を建国したそうです。私も祖先にならって、この千葉の地から新しいともに生きる社会を創る覚悟です。
 実は色白、と知ったのは大人になってからでした。
 実は色白、と知ったのは大人になってからでした。
 野球大会で優勝!  
野球大会で優勝!(前列右から二番目)
 父から教わったプロ級のコマ回し
父から教わったプロ級のコマ回し(後の留学時代にも活躍!)
こちらは「自称」プロ級の腕前です
こちらは「自称」プロ級の腕前です

○1983年 帰省先の広島で父親が脳卒中に倒れ、
            一級障がい者となる。(2003年故人)

  • ・当時私は10歳、末の妹は2歳でした。以後、父親の21年間の闘病生活に寄り添い、小学校、中学校、高校、大学、社会人を通じて、いくつもの病院や施設に介護に通いました。 大学の卒論も2カ月以上に渡って病院に泊まり込みながらベッドサイドのゴザの上で書きました。
  • ・この間、経済大国であるはずの日本の社会保障制度の貧困さや、立場の弱い者に対する人間の素晴らしい面、悲しい面などさまざまな経験に直面しました。
  • なお、もう何年も前から、医療行為か介護行為かで延々と不幸な縄張り争いが繰り広げられている痰の吸引行為 (※気管切開後の患者や高齢者の方の痰を機械で吸引する行為)は、私は小学生の時からやっていました。

○1990年 徳島大学 医学部 医学科入学

  • ・父親の病気の経験や家庭事情から、一旦は地元の医学部に入学するも、父親の完全介護の施設への転居にともない父親と家族に背中を押され、 当初から一番好きだった文系の世界への道を目指して医学部を中退し(教養課程修了)、東京大学に再入学しました。
  • ・この間、経済大国であるはずの日本の社会保障制度の貧困さや、立場の弱い者に対する人間の素晴らしい面、悲しい面などさまざまな経験に直面しました。
  • ※元々社会問題に強い関心を持ち、高校時代から当時の政官業の醜い癒着構造に人間として譲れない問題(エイズ事件として社会問題化する以前の非加熱製剤の流通の実態など)があることを認識し、一旦は官僚などへの道を断念し医師を目指した背景もありました。

○1998年 東京大学教養学部教養学科卒業
              (アメリカ地域研究、相関社会科学)

  • ・アメリカの民主主義や多文化社会の現実と、それをいかに一つの国家・社会として統合し「自由で幸福追求が可能な社会」を創っていくか(※)について、 社会的格差などが広がる今日の日本にも通じる共生社会のあり方について学びました。(※ これがオバマ演説の核心メッセージです。)
  • ・一方で、運動好きを兼ねてテニスサークルで中心メンバーとして活躍しながら、引っ越しバイトなどに精を出しました。お世話になった育英会奨学金は現在も欠かさず返済中です。
  • ※留年について
    ・大学卒業後の進路として、マスコミや学者への道も考えましたが、直接社会の仕組みづくりに携わる公益的な職業を求めて国家公務員(いわゆる官僚)を目指し 、独学で法律を勉強し始めました。しかし、当時の国家公務員試験は都心の大手予備校に通わないとその特殊で限定的な試験情報が入手不可能ないわば特権階級の試験でした。 大学入試まで予備校に行かずに頑張ってきた私は、こうした姿勢が裏目に出てしまい、結局受験を見送ることになりました。
  • 幸いにも民間の就職活動ではマスコミなどから内定を受けることが出来ましたが、熟慮し家族に相談させてもらった結果、留年して翌年に国家公務員試験を再受験することにしました。 家庭の事情から、本来一年でも早く社会人になるべきところを、人生で最も辛い時期でした。(※なお、公務員試験情報の非公開については、試験合格後に人事院に抗議し、公開するよう変更させました。)

○1998年 郵政省 通信政策局 総務課

  • ・翌年に無事に国家公務員試験に合格し(法律職)、当時のIT革命の情熱とともに郵政省に入省し、以後、ITベンチャー支援など、さまざまな情報通信政策に従事しました。
  • ・途中、農林水産省に出向し、野菜農業政策(野菜生産出荷安定法改正)にも従事しました。
  • 政策リンク(IT政策、農林水産業の振興)

○2004年 コロンビア大学国際・公共政策大学院 修了

  • ・人事院の研究員派遣制度によりアメリカ・ニューヨークに留学しました。
  • ・9.11テロの翌年に渡米し、滞在中にイラク戦争の開戦を経験するなど、激動の国際社会とアメリカ社会の変動を肌身で実感しました。また、政治、経済における中国、 インド、韓国などの台頭と日本の地位の相対的低下に危機感を覚え、行政と政治の責任を深く認識しました。
  • 大学院で行政経営学と社会福祉(副専攻)を何十カ国も国籍の友人達と共に学びつつ、また、一市民として遅れた社会保障制度や人種による差別など、 格差社会・多文化社会のアメリカの光と影の姿を学ぶことが出来ました。
  • また、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館(いわゆる国立博物館)で第二次大戦中の日系人迫害の反省の展示を真摯に行う一方で、 何万機とあったB29の展示で敢えて広島への原爆投下機を誇らしげに展示する(そこには広島の被害に関する説明はありません)といった民主主義国家アメリカの素晴らしさとその限界を学びました。
ワシントンD.C ワシントンD.C
  • ※父の永眠
    東大入学後も長期の休みは全て父親の介護のために帰省していたため、これが初海外経験でした。 留学中も許可を得て東京時代と同じ頻度で帰国し、亡くなる直前も1ヶ月余り病院に泊まり込みましたが、長い闘病生活により全体症状が悪化していた父は2003年末に亡くなりました。

○2004年 総務省 情報通信政策局 放送政策課 課長補佐

  • ・職員の不祥事による受信料不払いに揺れる公共放送NHKを担当。連日の国会対応で徹夜勤務を重ねながら、 国民みなさまの公金(受信料)で成り立つ組織や政策のあり方について考えを深めた時期でした。
  • ・また、メディアと政治の関係について、現行制度の問題点を認識し、大きな危機感を抱きその改善の方法を考え続けました。

○2006年 経済産業省 商務情報政策局 情報政策課 課長補佐

  • ・経済産業省に出向し、国際競争政策、行政改革、医療分野のIT化、市民生活のIT利用の普及(インターネットを通じた引っ越しに伴う住所変更の一括手続き) などに取り組みました。ASEAN諸国を舞台とした国際競争では、中国や韓国などの大胆な支援策に比べ硬直化した日本の支援策や官民連携の問題に直面し、国益を守るための政治のリーダーシップ の必要を痛感しました。
  • 政策リンク

○2008年 総務省 選挙部 政治資金課 課長補佐

  • ・ 「政治とお金」の政治資金制度を担当する部署の課長補佐として、政治資金規正法や政党助成法の数度にわたる法改正に関与しました。 国民の常識とかい離した制度や、それを正すことが出来ない政治の現実を目の当たりにし、諸外国の制度などを研究しつつ、どうすれば国民本位の正しい民主主義が実現できるのか考え続けました。
  • 政策リンク

○2008年 東京大学 医療政策人材養成講座 修了(卒業研究:医療基本法制定プロジェクト 優秀賞)

  • ・ 亡くなった父親の闘病人生への想いを抱きつつ、それに霞が関で課長補佐職を歴任した知見を生かし崩壊の危機にある医療を救いたいという思いから、 働きながら東京大学の医療政策講座で研究活動を行いました。
  • ・ 医師や患者や医療ジャーナリストなどさまざまな立場の方とともに議論を交わし、医療崩壊を食い止め、少子高齢化や低経済成長の時代にあっても「救えるはずの命を救う」 医療を実現し維持するため、修了後も「医療基本法制定プロジェクト」のリーダーとして、 患者団体との勉強会、医学会でのシンポジウムの開催【資料1】など活動を重ねてきました。
  • 仕事をしながら徹夜を重ねて作成した「医療基本法」の資料は多くの方から激賞を頂き、全国紙などでも報道され、 医療再建の唯一の切り札であるこの政策の第一人者であると自負しています。
  • 【プレゼン資料】
    【キャリアブレインインタビュー】
  • 政策リンク
東京大学で主催したマスコミ関係者などの勉強会での熱弁 東京大学で主催したマスコミ関係者などの勉強会での熱弁
主催した第47回日本医療・病院管理学会学術総会の市民公開シンポジウムでの討議 主催した第47回日本医療・病院管理学会
学術総会の市民公開シンポジウムでの討議
「患者の権利宣言」25周年記念集会での招へいスピーチ 「患者の権利宣言」25周年記念集会での招へいスピーチ

○2010年 総務省 情報流通行政局 衛星・地域放送課 課長補佐(退職)

  • ・ 2011年7月に迫る放送のデジタル化の対応や、デジタル時代における新しい放送法体系の構築、衛星多チャンネル放送の普及に取り組みました。
  • ・ 医療崩壊の進む千葉県から日本の医療を再建する決意で臨んだ大激戦の民主党千葉県連の公募で選ばれ、12年間勤めた総務省を退職させて頂きました。

趣味


  • ・ テニス、サッカー、空手(社会人になって始めました
    ・ お酒を飲み語らうこと
    ・ 帰省の際に甥っ子姪っ子(5人います♪)と遊ぶこと

ニックネーム

  • ・ コニタン
    ・ にぃに(甥っ子姪っ子から)

尊敬する人

  • 長い闘病人生を立派に頑張り抜いた父親。4人の兄弟を育ててくれた母親。

好きな言葉

  • ・ 七転び八起き
    ・ Stay Hungry, Stay Foolish.「ハングリーであれ。バカであれ。」
    世界中を感動させたSteve Jobs(Apple Computer CEO)の名スピーチの結語
    ・ "希望とは、もともとあるものだとも言えないし、ないものだとも言えない。 それは地上の道のようなものである。地上にはもともと道はない。 歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。"
    帝国主義時代の中国の作家の魯迅(ろじん)の小説「故郷」の結語

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